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2009年・秋旅1 三井寺 [寺・仏像など]

11月8日早朝、北関東の家を出て、22年ぶりに三井寺の山門前に着いたのは、
10時半を過ぎた頃。
柔らかな秋の日差しが境内に優しい気配を満たし、
始まりかけた紅葉の賑やかな色彩も、
重厚な歴史の影をほっと安らげるかのようで、穏やかでした。

記憶よりも小ぶりに感じた国宝の本堂。
天智天皇念持仏という絶対秘仏を包んだ厨子は堅く閉ざされ、
その背面周囲に古仏をぐるりとはべらせていました。
脇役めいた立ち位置にこだわる風もなく、
平安から江戸までの造像年の記された木札とともに恬淡と並ぶ数多の像。
昨今、保存・保護の必要からまとめて収蔵庫になど移されてしまったような、
安心だけれどどこか落ち着かない仏像をばかり見ることが多かったためか、
この古きよき時代と言いたい雰囲気の残るお堂は、
佇むだけで充分幸せでした。

本堂脇には有名な三井の晩鐘。
一般の方が撞いても穏やかな音色が染み渡ります。

また逆の脇には、閼伽井屋が。
正式名称園城寺が「三井寺」と呼ばれる所以となった、
天智・天武・持統三帝が産湯につかったという湧き水(井泉)が、
この日もこぽっこぽっと、人恋しがるかのような不思議な音をたてて、
沸きだしていました。

閼伽井屋をまわって少し上に登ると、
孔雀明王の威徳にあやからんためか、はたまた報恩のためか、
7,8羽の孔雀が、広いケージでのんびり飼育されていました。
羽根を広げてくれることこそありませんでしたが、
お寺で生き身の孔雀に会えるとは。

本来、もっともっとゆっくり歩くはずの境内ですが、
切ないかな時間も限られた旅の身空、一番の目的の観音堂まで急ぎます。

大津の町並み越しに、霞む琵琶湖を遠望できる高台のこのお堂は、
西国三十三所観音霊場第十四番札所。
10世紀作の重文、如意輪観音像が安置されています。
三十三年に一度開帳の秘仏ですが、今年の秋と来春は、
花山法皇千年忌結縁ご開帳ということで、特別に公開されています。
(平成21年10月3日~11月30日/平成22年3月17日~4月18日)

これに先立って、今年の春先、東京のサントリー美術館で開催の、
「国宝 三井寺展」
に、この観音像が来ていました。
(前後して大阪福岡でも開催)

一面六臂のほぼ等身大の坐像、寄木作りです。
右ひざを立ててゆったりと座し、右手第一手を軽く頬にあてて首をかたげた姿は、
愛らしさと色気を同時に纏った魅力的なもの。
お顔もまた、
愛らしく微笑んでいるようでありながら、
泣いているようにもはにかんでいるようにも見え、
果ては諦めて倦んでいるようにさえ見えてくるから不思議でした。
この変幻自在な像を、是非、あるべき場所すなわち安置されているお堂で見てみたい。

それが、今年、三井寺を訪ねた大きな目的でした。

靴を脱いで、そっと内陣厨子の背後にまわると、
最奥に、大きいですがどちらかと言えば簡素な御厨子。
その扉に垂らされた金襴の帳を、正面のみわずかに開いた荘厳の中、
ほの暗い明りに抑えた金色で浮かび上がったのは、
春先に会ったと同じ、移ろう様々な表情の、あの観音像。

その瞬間、思わず会心の笑み。
ぱあっと顔が明るくなり、満面の笑みとはこのことと言わんばかりの笑顔になったのが、
自分でもわかりました。
・・・仏像の前でひとり破顔一笑する人間も、そうは多くあるまいと、
説明のために待機してくださってるお寺の方の手前、かなり恥ずかしくなりました。

けれど、歓喜せずにいられましょうか。
金襴の帳のために全体像は見えず、わずかな開口部正面からは、
右頬に添えた手がしなるようにこの上なく美しく、
整った丸いお顔をそっと支える様が艶冶に見えます。

右に寄り、左に下がりして覗き仰げば、
絶妙の調和を保った6しなりの腕が、暗い御厨子の中からほの見えてきます。
そのそれぞれの、持物を含めた表情の豊かさ。

そうしてそのお顔は、のびやかな眉にそっと伏せた薄いまぶた
こじんまり整った鼻と唇が、ふくらかな頬を一層まろやかに見せます。
春の印象と同じく、
愛らしい少女の、はにかんで微笑むようでありながら、
艶やかな女身の、全てを諦めて倦んでいるようにも見え。

「人は幾年経ても 相も変らぬの・・・」

そんな声が涼やかに御堂を伝うようです。

三十三年が仏にとっていかほどの長さかは人の身で推し量ることもできませんが、
開帳のたびごとに、いつ見てもいつ見ても、
群がる人々は同じ煩悩を抱えて同じように少しだけ頭を下げて去っていく。
たまに輝く人物がいたとしても、三十三年の後には鬼籍へと連れ去られ、
あるいは生きるために輝きは磨耗して。
そんな繰り返しに、倦み諦めながら、立ち去ることなくサラリと座し続ける。
人がかくも同じことを繰り返して飽きないのならば、
わが身もともにこのままここに、在り続けよう。
教え導き諭し引き上げる仏ではなくてこれは人のすべてを受け入れて側にいてくれる仏。
心惹かれたのはそこだったのかもしれません。

存在のおおかたを厨子の中の闇で過ごすこの像の、
沈んだ金色の丸いお顔をじっと見ていると、
闇と光が逆転する瞬間がありました。
その、闇に浮き上がってよりくっきりと輝くお顔に、
香炉から漂い上る薫煙のゆらゆらとした軌跡が儚く重なった時、
我知らずぽろぽろ涙がこぼれました。
仏像を見ながら宗教としての仏教とは距離をおくことを身上としていますが、
法悦、というのは、こういうことなのだろうと、思いました。

厨子の前はほとんど人ひとりが通れる程度の狭い通路で、
次から次へと訪れる人々の邪魔をしないように後方待機、
流れが途絶える一瞬を狙って厨子の前に進み出ることを繰り返し、
小一時間いたでしょうか。
後ろ髪をひかれながら、次の目的地、正倉院展へと向かいました。


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三井寺本堂



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穏やかな紅葉



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観音堂



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観音堂でみつけた、鸚鵡の土鈴



訪ねた日・2009.11.8
書いた日・2009.11.13

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