偲ぶ会 [恩師のことなど]
不特定一般への公開が原則のブログなどというもので、
どこまで書けるものか、書いて良いものかわかりませんが、
恩師のことを。
昨夏逝去された大学時代の先生の一周忌を前にして、
約50名が集まって、偲ぶ会が開催されました。
私も、参列というよりは、70代、80代の学会の重鎮をはじめとして、
学園紛争以前に卒業した諸先輩を前に、
下から4,5番めの小童でしたので、お手伝いに参上。
荷物運びや受付をしてきました。

お仕事の仕方は人それぞれで、
恩師は寡作な上に決してマスコミ受けする仕事はしていなかったので、
一般にはお名前を知られることも少なかったかもしれません。
(いくつか、大変著名な一般向けも書かれていますが、古いことです)
けれど、口癖であられた「人の役に立つ論文を書け」を更に徹底されて、
史料の注解という基礎中の基礎のお仕事の第一人者であられました。
(ちなみに「人の役に立つ論文」とは、
他人様の論考をつまみ食いして華々しい新説を発表するような仕事ではなく、
史料を真面目に研究し、その論文から他人様が何かを書ける、礎となるような論文、
という意味です)

もちろん、数少ないですがいくつか書かれたご自身の論文は、
その後のすべての研究者に深い影響を与える鋭いものです。
たとえば、50年前に書かれた、当時衝撃的だった論考は、
現在新史料の発見とともに確実に裏打ちされ、定説になりました。
巷で騒がれる革新的な説の中には、資料的な裏打ちのできないことを逆手にとった、
いわば「正しいとも証明できないかわりに、間違いだという証拠も出ない」もの、
が多くあります。
この学会で一般に最も有名な某説の主唱者である有名な先生に、
恩師はじめ他の先生方が、
「○○君、あの説、いいかげんひっこめなさいよ」
と言ったら、
「いいんだよ、間違いだって証明もできないんだから」
と答えながら呵呵と笑われたというお話は、
笑い話として、直接恩師から聞いたことです。

いったい、何の学会なのかをボカしていてこんな話題では、
読まれる方も困惑されることと思いますが、様々差しさわりもあるので、ご容赦下さい。
私のメインサイト、夢紫五色をのぞいて頂ければ、少し想像していただけるかもしれません・・・
ただし、メインテーマにしている、仏像や日本美術ではありません。
そのことに関しては、恩師の言葉、
「好きなことは趣味になさい。仕事にしてしまうと、嫌なこともいろいろしなければならなくなりますから」
を、はからずも地味に守った形になりました。
恩師は、実際には戦地に出ることなく終戦を迎えられましたが、
学徒動員で召集された際、これが最後と奈良の古寺古仏を見てまわられたご経験があります。
その上で、私の奈良や仏像への愛着を、
「僕の教え子の中で、貴女が一番、僕と近い見方をしています」
と言ってくださっていたことが、
学恩にはほど遠い生き方を選んでしまった私にとって、
唯一、そして何よりうれしい勲章です。
昨夏、ご入院先の久里浜の病院へ一度だけお見舞いに参上した際、
ちょうどその春、東博で開催されていた、あの「阿修羅展」で購入した、
八部衆の絵葉書をお持ちしました。
合成写真で8体が一枚の中にぎゅう詰めで並んで写っているもので、
本当はお笑い草として郵便でお送りするつもりが、ついそのままになっていたものです。
お話することは勿論、ご意思の表示もほとんどなされなくなっていたお姿で、
その絵葉書を手にとられると、ずっと長く眺められ、
見間違いでなければ、涙をこぼされていた・・・
そのひと月半後にご逝去なされたのですが、
あの一葉をお持ちできたことだけが、多大なご恩に少しでも報いることのできた、
私の唯一の恩師孝行だった・・・と、信じたいのです。
そう、勲章といえば、学徒動員のご体験と、その後の学園紛争での様々なお考えから、
国からの叙勲のお話も、昭和天皇への御親講のお話も、一切お断りされての一生でした。
若い頃は気炎万丈で、国が何するものぞ!とそのようなものを蹴ることを身上とする人も、
年をとって丸くなれば欲も体裁も適度に飲み込めるようになり、
叙勲くらいは受けるものだそうですが、恩師は一貫して拒否なさいました。
同じ様に、卒業式後の謝恩会へも、絶対にお出にならない人でした。

この写真ははからずもピンボケなのでそのまま載せても大丈夫かと・・・
先生の一人息子さんの謝辞の場面です。
同じではありませんが、お隣くらいの学会で、現在ご活躍中です。
お年は私と同じくらいです。
お父上である恩師との確執も取りざたされたこともあったようで、
最期までの数ヶ月とご葬儀、今回の偲ぶ会についても、
常人にはなかなか理解しにくいお立場を取られたりもしたようです。
でも、私が思い出す恩師はいつも、息子をここで遊ばせたとか、ブランコに乗せたとか、
いい大人に言うには滑稽にもうつるほど、ご子息との思い出を大切になさっていました。
いつかその思いが息子さんにもきちんと届きますように・・・。
そして、なんだか意味不明になってしまったこのブログも、
そんな先生がいて、遺された人に深い思いを抱かせながら、
天のどこかでシニカルに笑っていると、
読んでくださったどなたかに、ほんわりと伝われば・・・
あらためてご冥福をお祈りしながら、書かずにはいられなかったのです。
古仏に親しみ、曹洞宗でご葬儀をあげられた先生は、
今、ご遺骨はニコライ堂で眠っているそうです。
このこともいろいろあるのですが、今は割愛。
いずれ、お参りに訪ねたいと思っています。
どこまで書けるものか、書いて良いものかわかりませんが、
恩師のことを。
昨夏逝去された大学時代の先生の一周忌を前にして、
約50名が集まって、偲ぶ会が開催されました。
私も、参列というよりは、70代、80代の学会の重鎮をはじめとして、
学園紛争以前に卒業した諸先輩を前に、
下から4,5番めの小童でしたので、お手伝いに参上。
荷物運びや受付をしてきました。

お仕事の仕方は人それぞれで、
恩師は寡作な上に決してマスコミ受けする仕事はしていなかったので、
一般にはお名前を知られることも少なかったかもしれません。
(いくつか、大変著名な一般向けも書かれていますが、古いことです)
けれど、口癖であられた「人の役に立つ論文を書け」を更に徹底されて、
史料の注解という基礎中の基礎のお仕事の第一人者であられました。
(ちなみに「人の役に立つ論文」とは、
他人様の論考をつまみ食いして華々しい新説を発表するような仕事ではなく、
史料を真面目に研究し、その論文から他人様が何かを書ける、礎となるような論文、
という意味です)

もちろん、数少ないですがいくつか書かれたご自身の論文は、
その後のすべての研究者に深い影響を与える鋭いものです。
たとえば、50年前に書かれた、当時衝撃的だった論考は、
現在新史料の発見とともに確実に裏打ちされ、定説になりました。
巷で騒がれる革新的な説の中には、資料的な裏打ちのできないことを逆手にとった、
いわば「正しいとも証明できないかわりに、間違いだという証拠も出ない」もの、
が多くあります。
この学会で一般に最も有名な某説の主唱者である有名な先生に、
恩師はじめ他の先生方が、
「○○君、あの説、いいかげんひっこめなさいよ」
と言ったら、
「いいんだよ、間違いだって証明もできないんだから」
と答えながら呵呵と笑われたというお話は、
笑い話として、直接恩師から聞いたことです。

いったい、何の学会なのかをボカしていてこんな話題では、
読まれる方も困惑されることと思いますが、様々差しさわりもあるので、ご容赦下さい。
私のメインサイト、夢紫五色をのぞいて頂ければ、少し想像していただけるかもしれません・・・
ただし、メインテーマにしている、仏像や日本美術ではありません。
そのことに関しては、恩師の言葉、
「好きなことは趣味になさい。仕事にしてしまうと、嫌なこともいろいろしなければならなくなりますから」
を、はからずも地味に守った形になりました。
恩師は、実際には戦地に出ることなく終戦を迎えられましたが、
学徒動員で召集された際、これが最後と奈良の古寺古仏を見てまわられたご経験があります。
その上で、私の奈良や仏像への愛着を、
「僕の教え子の中で、貴女が一番、僕と近い見方をしています」
と言ってくださっていたことが、
学恩にはほど遠い生き方を選んでしまった私にとって、
唯一、そして何よりうれしい勲章です。
昨夏、ご入院先の久里浜の病院へ一度だけお見舞いに参上した際、
ちょうどその春、東博で開催されていた、あの「阿修羅展」で購入した、
八部衆の絵葉書をお持ちしました。
合成写真で8体が一枚の中にぎゅう詰めで並んで写っているもので、
本当はお笑い草として郵便でお送りするつもりが、ついそのままになっていたものです。
お話することは勿論、ご意思の表示もほとんどなされなくなっていたお姿で、
その絵葉書を手にとられると、ずっと長く眺められ、
見間違いでなければ、涙をこぼされていた・・・
そのひと月半後にご逝去なされたのですが、
あの一葉をお持ちできたことだけが、多大なご恩に少しでも報いることのできた、
私の唯一の恩師孝行だった・・・と、信じたいのです。
そう、勲章といえば、学徒動員のご体験と、その後の学園紛争での様々なお考えから、
国からの叙勲のお話も、昭和天皇への御親講のお話も、一切お断りされての一生でした。
若い頃は気炎万丈で、国が何するものぞ!とそのようなものを蹴ることを身上とする人も、
年をとって丸くなれば欲も体裁も適度に飲み込めるようになり、
叙勲くらいは受けるものだそうですが、恩師は一貫して拒否なさいました。
同じ様に、卒業式後の謝恩会へも、絶対にお出にならない人でした。

この写真ははからずもピンボケなのでそのまま載せても大丈夫かと・・・
先生の一人息子さんの謝辞の場面です。
同じではありませんが、お隣くらいの学会で、現在ご活躍中です。
お年は私と同じくらいです。
お父上である恩師との確執も取りざたされたこともあったようで、
最期までの数ヶ月とご葬儀、今回の偲ぶ会についても、
常人にはなかなか理解しにくいお立場を取られたりもしたようです。
でも、私が思い出す恩師はいつも、息子をここで遊ばせたとか、ブランコに乗せたとか、
いい大人に言うには滑稽にもうつるほど、ご子息との思い出を大切になさっていました。
いつかその思いが息子さんにもきちんと届きますように・・・。
そして、なんだか意味不明になってしまったこのブログも、
そんな先生がいて、遺された人に深い思いを抱かせながら、
天のどこかでシニカルに笑っていると、
読んでくださったどなたかに、ほんわりと伝われば・・・
あらためてご冥福をお祈りしながら、書かずにはいられなかったのです。
古仏に親しみ、曹洞宗でご葬儀をあげられた先生は、
今、ご遺骨はニコライ堂で眠っているそうです。
このこともいろいろあるのですが、今は割愛。
いずれ、お参りに訪ねたいと思っています。







