山田寺、飛鳥寺 [寺・仏像など]
2011年10月20日。
子供の修学旅行の一日を使って、日帰りで飛鳥へ。
奈良ではなく、飛鳥へ。
繰り返し書くにはわけがあります。
毎年、正倉院展にあわせて奈良に入りますが、
飛鳥まで足をのばすことができないまま、
もう何年も何年もたってしまったから。
最後に飛鳥に入ったのはいつだったのか。
歩いたり、貸し自転車を使ったりしてゆっくりまわっていたのは、
思い出せる限り25年も前になってしまいました。
もう、歩けず、自転車も恐い年齢と体力になってしまった今、
若い頃、できる無茶をしておいてよかったと、懐かしく思います。
今年は飛鳥資料館で「飛鳥遺珍-のこされた至宝たち」展があるので、
正倉院展とは別のこの時期に来ることにしたのです。
この特別展のことは別に書きました。
まったく知らなかったのですが、この資料館の常設展示の一画に、
復元された山田寺東回廊が鉄枠に支えられてひっそりと佇んでいたので、
非常に驚きました。
念のため確認しましたが(この資料館はレプリカが多いため。笑)実物だそうで!
いつから展示されているのか聞いたら、10年くらい前ですかねえと、
気乗りのしないお返事。
なでこんなものすごいもの、もっと宣伝しないのか、
いついつこれこれの経緯でここに復元したと勢いこんで教えてくれてもいいものなのに!と、
部外者なのになぜか歯噛みするほど悔しくなりましたが、
飛鳥の地にあればごく当たり前の光景、遺品、騒ぐほどのものではないのかもしれませんね。
(復元展示は1997年が最初のようですね)
山田寺東回廊、これが土中から、倒壊した当時の姿そのままで、
連子窓も美しく発見されたのは、1982年でした。
他のどんな貴重な遺跡や遺構、古墳の発掘にもまして、
当時の建物がそのままの姿で出てきたことは心を深く刺激し、
新聞やテレビを賑わすその情報に強く憧れて、
学生だったその年の秋、早速山田寺を訪ねました。
一般公開日でも何でもない時期で、はたして寺域に入れるのかどうかすら、
確認することも思いつかないおぼつかない道行でしたが、
道から普通に続く発掘現場で、そこここのブルーシートの合間に見つけた、
少し深く掘り下げられた四角い穴の中、
底のぬかるみにうずまった遺構を見ることができました。
それからだいぶして再度訪ねたときは、ただ小さなお堂が残るだけで、
特に遺跡らしきものはなくなっていた・・・と、思っていました。
今回資料館の人も、今ではただ広場になっているだけ、とおっしゃっていました。
それでも、こんな風に回廊と出会ってしまったので、
呼ばれる様にまた、山田寺へと足を運ぶことに。
10月なかばすぎだというのに、真夏を思わせる暑い午後の日ざしをうけて、
さして遠くないはずですが道の記憶がない不安の中、
へばりかけながらゆるい坂道を登ります。
黄金色に輝く稲穂のたわみと、
それをピンクで縁取る如く濃く薄く咲いたコスモスの明るさに励まされて、
山田寺あちらの標識に沿って小さい村道を曲がると、
かすかな記憶通りの、小さなお堂。

光の柱が立ちましたね。
それから館の方が言ってらした通り、奥には野原が広がって・・・いると思ってよく見たら、
何か遺跡の表示らしきものが遠くに見えます。

それで東側にまわってみると、野原ではなくて、ちゃんと、伽藍の基壇などが復元整備されて、
説明版などもありました。

特に今の本堂の裏側にあたる、おそらく金堂の基壇部分の眺めは、
遠く金剛・葛城のあたりまで見はるかせ、吹く風も切ない郷愁に満ちていました。

人の姿もなく、歩けば草虫がてんでに飛び出す場所でしたが、
下草はよく刈り込まれて誰かの手の存在を濃厚に感じさせます。
臍をかむ思いで命を絶っただろう、遠い昔のこの寺の最初の発願人のこと、
それから随分たって強奪されたまま、今も興福寺にある本尊仏頭のこと、
現代を当たり前に暮らしている私には想像するのも重過ぎる、
連綿と続く人の心の蠢きを、足元の草からも感じる様でした。
それからどうしても行っておきたかった、飛鳥寺へ。
地図で見てもわずかな記憶を頼っても、山田寺への道と距離はさほど変わらない、
と思って来た道をてくてく戻りましたが、道路標識に飛鳥大仏3.7キロ、とか、
それくらいの数字を見つけて断念。
タクシーを呼ぶつもりで資料館まで戻ると、ちょうど来た檜隈行きのバスに乗れました。
1時間に1本ほどの様です。
このバスが、何これどこ通っているの!?と、普通よりはうんと小型のバスですが、
両側の軒がくっつくのではと思う様な狭い道をやたらと曲がりながら進みます。
ご存知の通り、飛鳥は全域が歴史的風土特別保存地区指定で、
厳しい建築規制で通常の住宅が建てられませんから、
まるで御伽草子の様な懐かしい家並みの中をバスが行くのが、
どうにもかえって異次元に迷い込んだ様なおかしな気持ちにさせてくれました。
そうして到着した飛鳥寺。

はじめて訪ねた高校の修学旅行の時に比べれば、
本堂も建て替えられ、周囲も綺麗になって驚いた時期もありましたが、
今はやはり、そこだけぽつんと小さく残るお寺、という印象が強いです。
観光客は流石にたくさんいて賑やかでしたが、
みな、ここで何を見ていくのでしょうか。
否、ちゃんと、見ているのでしょうか。
止まっている時を。
続いている歴史を。
このお寺は、相変わらず、変わっているなあと思います。
聖にも俗にも傾かず、
権高くもないけれど親しみやすいわけでもない。
のどかな風景の中にあってここだけなんだかせわしなく、
たしかにお寺なのに、お寺らしさを感じない。
不思議は更に続きます。
まず本堂。
さして大きくないというより、せっかく建て替えてもやっぱり小さなお堂です。
以前より手前の供物の場所の分遠くなった気がしますが、
丈六の仏像では全国でも一番近くで拝観できる一箇所ではないでしょうか。
そして、風です。
本堂に座ると、いつも、入り口から奥に向かって、風が吹いています。
この日も、外は蒸し暑くこそあれ、風など感じなかったのに、
堂内に座ると、心地良い風がむしろ強く吹き渡っていました。
・・・扇風機?確認してきませんでしたが、
たしか以前訪ねたときも、風が不思議で探してみましたが、
人工的なものはなかったと記憶しています。
誰の心にも、明日香風、という言葉が浮かぶに相応しいお堂です。
そして一番不思議なのが、おおらかな写真許可と、
時々始まるあまり熱意のこもらない解説でしょうか。
昔聞いた話です。
飛鳥寺の釈迦如来像、向かって右からのお顔は、
厳しい、過去。

中央からのお顔は、
平静を保つ、現在。

そして向かって左からのお顔は、
優しい、未来。

堂内を携帯で撮ったので写り具合がよくありませんが、
そんな風に見えるでしょうか?
焼失損壊でほとんどが稚拙ともいえる補修姿、
おそらくわずかに杏仁形の御眼と周辺、御指の一部などだけが往時の姿ではないかと言われ、
お顔も無惨な傷あとばかりのこの像です。
けれど高校生だった私が、天啓ともいえる何かを得た像です。
それからもうひとつ不思議なところ。
建て替えてもやはり、回廊・・・というより普通のお宅の廊下沿いに、
出土品や関係する資料が展示されているところ。
その廊下を歩くとすぐ、小さな中庭があって、そこには南北朝や室町時代の石灯篭などが、
ごちゃっとまとめて置いてあります。
簡単な説明板も見え隠れし、およそ「庭」の風情とは遠いにも関わらず、
なんとはなしに、気に掛かります。

こうして廊下をぐるっとまわって入り口に戻され、
靴を履いてさようなら、なのですが、その手前の樹の葉裏に、
こんな虫の抜け殻が。
ぴんぼけですが。

うといのでセミなのか他の虫なのか、
今の時期にこんな人目につく場所にぶらぶらしているものなのか、
もしかしたらおもちゃなのか・・・
もうさっぱりわかりませんが、
出会ったのは縁。
見過ごすことができなくて・・・。
帰りもまた、1時間に1本のバスがあと3分もすれば来るという時間で、
ありがたくそのままバスで近鉄橿原神宮前駅へ。
真新しい黄色い帽子をかぶった小学生がたくさん乗っていて、
三々五々とあちこちのバス停で降りて行きました。
全然関係もないのに、各地から集められた采女に思いを馳せました。
飛鳥に入って、飛鳥を出る時、
耳成・香具・畝傍の大和三山と、
東の三輪山、西の二上山を確認するのを常とします。
今は建物に埋もれ、近鉄の車窓から切れ切れに見えるだけですが、
ここが、飛鳥。ここが大和。
古代の人たちが、常に眺めて暮らしたしるべの山です。
そうして懐かしい飛鳥は、押し返される様な不思議な拒絶感に満ちていました。
見えない透明なゴム鞠に包まれていて、入っていこうとすればするほど、
気づかぬうちに強い力で押し戻されているような。
苦しいほどの。
どうしてでしょうね。
もしかしたら。
橿原市から明日香村に入ったとたんに、忽然と現れる、
守られた日本の農村の原風景のあまりの不自然さに、
ジオラマを見ている様な言いようのない気持ちになった、
そのことと関係があるのかもしれません。
拒絶されても、触れられなくても、
焦がれる思いは変わりません。
親に捨てられた子でも親を恋うように、
やはり私は飛鳥が好きです。
子供の修学旅行の一日を使って、日帰りで飛鳥へ。
奈良ではなく、飛鳥へ。
繰り返し書くにはわけがあります。
毎年、正倉院展にあわせて奈良に入りますが、
飛鳥まで足をのばすことができないまま、
もう何年も何年もたってしまったから。
最後に飛鳥に入ったのはいつだったのか。
歩いたり、貸し自転車を使ったりしてゆっくりまわっていたのは、
思い出せる限り25年も前になってしまいました。
もう、歩けず、自転車も恐い年齢と体力になってしまった今、
若い頃、できる無茶をしておいてよかったと、懐かしく思います。
今年は飛鳥資料館で「飛鳥遺珍-のこされた至宝たち」展があるので、
正倉院展とは別のこの時期に来ることにしたのです。
この特別展のことは別に書きました。
まったく知らなかったのですが、この資料館の常設展示の一画に、
復元された山田寺東回廊が鉄枠に支えられてひっそりと佇んでいたので、
非常に驚きました。
念のため確認しましたが(この資料館はレプリカが多いため。笑)実物だそうで!
いつから展示されているのか聞いたら、10年くらい前ですかねえと、
気乗りのしないお返事。
なでこんなものすごいもの、もっと宣伝しないのか、
いついつこれこれの経緯でここに復元したと勢いこんで教えてくれてもいいものなのに!と、
部外者なのになぜか歯噛みするほど悔しくなりましたが、
飛鳥の地にあればごく当たり前の光景、遺品、騒ぐほどのものではないのかもしれませんね。
(復元展示は1997年が最初のようですね)
山田寺東回廊、これが土中から、倒壊した当時の姿そのままで、
連子窓も美しく発見されたのは、1982年でした。
他のどんな貴重な遺跡や遺構、古墳の発掘にもまして、
当時の建物がそのままの姿で出てきたことは心を深く刺激し、
新聞やテレビを賑わすその情報に強く憧れて、
学生だったその年の秋、早速山田寺を訪ねました。
一般公開日でも何でもない時期で、はたして寺域に入れるのかどうかすら、
確認することも思いつかないおぼつかない道行でしたが、
道から普通に続く発掘現場で、そこここのブルーシートの合間に見つけた、
少し深く掘り下げられた四角い穴の中、
底のぬかるみにうずまった遺構を見ることができました。
それからだいぶして再度訪ねたときは、ただ小さなお堂が残るだけで、
特に遺跡らしきものはなくなっていた・・・と、思っていました。
今回資料館の人も、今ではただ広場になっているだけ、とおっしゃっていました。
それでも、こんな風に回廊と出会ってしまったので、
呼ばれる様にまた、山田寺へと足を運ぶことに。
10月なかばすぎだというのに、真夏を思わせる暑い午後の日ざしをうけて、
さして遠くないはずですが道の記憶がない不安の中、
へばりかけながらゆるい坂道を登ります。
黄金色に輝く稲穂のたわみと、
それをピンクで縁取る如く濃く薄く咲いたコスモスの明るさに励まされて、
山田寺あちらの標識に沿って小さい村道を曲がると、
かすかな記憶通りの、小さなお堂。

光の柱が立ちましたね。
それから館の方が言ってらした通り、奥には野原が広がって・・・いると思ってよく見たら、
何か遺跡の表示らしきものが遠くに見えます。

それで東側にまわってみると、野原ではなくて、ちゃんと、伽藍の基壇などが復元整備されて、
説明版などもありました。

特に今の本堂の裏側にあたる、おそらく金堂の基壇部分の眺めは、
遠く金剛・葛城のあたりまで見はるかせ、吹く風も切ない郷愁に満ちていました。

人の姿もなく、歩けば草虫がてんでに飛び出す場所でしたが、
下草はよく刈り込まれて誰かの手の存在を濃厚に感じさせます。
臍をかむ思いで命を絶っただろう、遠い昔のこの寺の最初の発願人のこと、
それから随分たって強奪されたまま、今も興福寺にある本尊仏頭のこと、
現代を当たり前に暮らしている私には想像するのも重過ぎる、
連綿と続く人の心の蠢きを、足元の草からも感じる様でした。
それからどうしても行っておきたかった、飛鳥寺へ。
地図で見てもわずかな記憶を頼っても、山田寺への道と距離はさほど変わらない、
と思って来た道をてくてく戻りましたが、道路標識に飛鳥大仏3.7キロ、とか、
それくらいの数字を見つけて断念。
タクシーを呼ぶつもりで資料館まで戻ると、ちょうど来た檜隈行きのバスに乗れました。
1時間に1本ほどの様です。
このバスが、何これどこ通っているの!?と、普通よりはうんと小型のバスですが、
両側の軒がくっつくのではと思う様な狭い道をやたらと曲がりながら進みます。
ご存知の通り、飛鳥は全域が歴史的風土特別保存地区指定で、
厳しい建築規制で通常の住宅が建てられませんから、
まるで御伽草子の様な懐かしい家並みの中をバスが行くのが、
どうにもかえって異次元に迷い込んだ様なおかしな気持ちにさせてくれました。
そうして到着した飛鳥寺。

はじめて訪ねた高校の修学旅行の時に比べれば、
本堂も建て替えられ、周囲も綺麗になって驚いた時期もありましたが、
今はやはり、そこだけぽつんと小さく残るお寺、という印象が強いです。
観光客は流石にたくさんいて賑やかでしたが、
みな、ここで何を見ていくのでしょうか。
否、ちゃんと、見ているのでしょうか。
止まっている時を。
続いている歴史を。
このお寺は、相変わらず、変わっているなあと思います。
聖にも俗にも傾かず、
権高くもないけれど親しみやすいわけでもない。
のどかな風景の中にあってここだけなんだかせわしなく、
たしかにお寺なのに、お寺らしさを感じない。
不思議は更に続きます。
まず本堂。
さして大きくないというより、せっかく建て替えてもやっぱり小さなお堂です。
以前より手前の供物の場所の分遠くなった気がしますが、
丈六の仏像では全国でも一番近くで拝観できる一箇所ではないでしょうか。
そして、風です。
本堂に座ると、いつも、入り口から奥に向かって、風が吹いています。
この日も、外は蒸し暑くこそあれ、風など感じなかったのに、
堂内に座ると、心地良い風がむしろ強く吹き渡っていました。
・・・扇風機?確認してきませんでしたが、
たしか以前訪ねたときも、風が不思議で探してみましたが、
人工的なものはなかったと記憶しています。
誰の心にも、明日香風、という言葉が浮かぶに相応しいお堂です。
そして一番不思議なのが、おおらかな写真許可と、
時々始まるあまり熱意のこもらない解説でしょうか。
昔聞いた話です。
飛鳥寺の釈迦如来像、向かって右からのお顔は、
厳しい、過去。

中央からのお顔は、
平静を保つ、現在。

そして向かって左からのお顔は、
優しい、未来。

堂内を携帯で撮ったので写り具合がよくありませんが、
そんな風に見えるでしょうか?
焼失損壊でほとんどが稚拙ともいえる補修姿、
おそらくわずかに杏仁形の御眼と周辺、御指の一部などだけが往時の姿ではないかと言われ、
お顔も無惨な傷あとばかりのこの像です。
けれど高校生だった私が、天啓ともいえる何かを得た像です。
それからもうひとつ不思議なところ。
建て替えてもやはり、回廊・・・というより普通のお宅の廊下沿いに、
出土品や関係する資料が展示されているところ。
その廊下を歩くとすぐ、小さな中庭があって、そこには南北朝や室町時代の石灯篭などが、
ごちゃっとまとめて置いてあります。
簡単な説明板も見え隠れし、およそ「庭」の風情とは遠いにも関わらず、
なんとはなしに、気に掛かります。

こうして廊下をぐるっとまわって入り口に戻され、
靴を履いてさようなら、なのですが、その手前の樹の葉裏に、
こんな虫の抜け殻が。
ぴんぼけですが。

うといのでセミなのか他の虫なのか、
今の時期にこんな人目につく場所にぶらぶらしているものなのか、
もしかしたらおもちゃなのか・・・
もうさっぱりわかりませんが、
出会ったのは縁。
見過ごすことができなくて・・・。
帰りもまた、1時間に1本のバスがあと3分もすれば来るという時間で、
ありがたくそのままバスで近鉄橿原神宮前駅へ。
真新しい黄色い帽子をかぶった小学生がたくさん乗っていて、
三々五々とあちこちのバス停で降りて行きました。
全然関係もないのに、各地から集められた采女に思いを馳せました。
飛鳥に入って、飛鳥を出る時、
耳成・香具・畝傍の大和三山と、
東の三輪山、西の二上山を確認するのを常とします。
今は建物に埋もれ、近鉄の車窓から切れ切れに見えるだけですが、
ここが、飛鳥。ここが大和。
古代の人たちが、常に眺めて暮らしたしるべの山です。
そうして懐かしい飛鳥は、押し返される様な不思議な拒絶感に満ちていました。
見えない透明なゴム鞠に包まれていて、入っていこうとすればするほど、
気づかぬうちに強い力で押し戻されているような。
苦しいほどの。
どうしてでしょうね。
もしかしたら。
橿原市から明日香村に入ったとたんに、忽然と現れる、
守られた日本の農村の原風景のあまりの不自然さに、
ジオラマを見ている様な言いようのない気持ちになった、
そのことと関係があるのかもしれません。
拒絶されても、触れられなくても、
焦がれる思いは変わりません。
親に捨てられた子でも親を恋うように、
やはり私は飛鳥が好きです。
飛鳥遺珍-のこされた至宝たち- [美術館・博物館]
飛鳥資料館
「飛鳥遺珍-のこされた至宝たち-」展
会期:2011.10.14(金)~11.27(日)
訪ねた日:2011.10.20
書いた日:2011.10.21
「飛鳥遺珍-のこされた至宝たち-」展
会期:2011.10.14(金)~11.27(日)
訪ねた日:2011.10.20
書いた日:2011.10.21
9月末の新聞で、飛鳥資料館で面白そうな展示があることを知りました。
公式サイトを確認しに行くと、
「(前略)飛鳥に由来する多くの文化財が、今日、日本各地の博物館や研究所に分散して保管されています。
今回の展覧会は、そうした明日香村外に保管され、普段はまとめてみることはできない飛鳥の至宝ともいうべき文化財のいくつかを一堂に集めて展示しました。(後略)」
好奇心と郷愁をかきたてられるに充分な惹句です。
いてもたってもいられなくなり、子供が修学旅行に出かけた一日を使って行ってきました。
もちろん日帰りです(笑)。
ちゃんと飛鳥に入ったのは、いつ以来でしたか・・・。
随分若い頃、近鉄橿原神宮前駅からひとりでてくてく歩いて飛鳥入りしたことがありましたが、
今はとても・・・もはや自転車もやめておいたほうが良い年齢になってしまいました。
かめバスというバスがあると聞いていたので探したのですが、
「運行は○×にお問い合わせを」と時刻がよくわからない謎の記述があり・・・
めんどくさくなったのでタクシーで飛鳥資料館へ。
その運転手さんがしきりと、あすこはほとんど働いていない、その証拠に門が半分しか開いてない、
中に入ったら本物とレプリカの区別をして見なければいけないなどと(そうでしたね(笑))、
笑い話のように話してくれまして、随分詳しそうでしたが、特別展のことはご存知なかったそうです。
なんとなく危険な予感・・・。
はたして中に入ると、復元漏刻の模型がどんと展示してありまずが、
館内は閑散。
展示も動線が滅茶苦茶で、常設展示に今回の特別展の展示品が混ざっていたりして、
普段お邪魔しない私には、判別できない有様。
特に、岡寺の天人文甎(せん)を楽しみに訪ねたのに、
一階にレプリカと、その隣に鳳凰文甎の写真があったので、
一瞬、これだけかと真っ青になりました。
本物の天人文甎は地階にちゃんとあり、その隣には鳳凰文甎のレプリカが並べてありました。
ややこしい・・・一階は常設展示なのでしょうか、
せめてこの期間、本物は地階にと書いてもらえれば・・・。
更に目玉展示のひとつのはずの「小治田」墨書土器も、
1階の最初の部屋では写真だけの展示、
実物は奥の別の部屋にありました。
また、カタログの裏表紙に可愛らしいハート形の「坂田寺跡出土水晶」の写真が使ってあったので、
これを見なければと探しにいくと・・・
そもそもが小さいものですが、展示ケースの2枚開きのガラス戸のあわせ目に隠れ、
かつ、「坂田寺出土云々」の展示名カードのすぐ裏側に置かれているため、
ほとんど見えません。
伸び上がってのぞきこめば、透明の物体であることはわかっても、
角度の関係でいびつな丸型になり、ハートの形にはまったく見えませんでした。
なんて残念な・・・。
展示位置を少し動かせばよく見えるはずなのでよほどその場で学芸員さんにお願いしたかったのですが、
モンスター観覧者になる勇気もなくて、アンケートに書いてくるに留めました。
読んでくださるといいのですが・・・とてもとても心残りです。
なんといいますか、都内の最新設備の整った博物館・美術館の、
設備のみならず手の心の行き届いた展示とは、比べるのも申し訳ない有様です。
かと言って、私の好きなかつての雑然としながらも知識の宝庫としての尊厳のあった、
古い形の博物館とも違う、この寂しさは何なのでしょうか。
随分以前に訪ねたときは、こんな印象はなかったはずなのですが・・・。
けれどしかし!
展示品は良いのです。
それから説明板も。
最新の情報なのかどうかまではわかりませんが、
詳細で知識欲を満足させてくれます。
そのためか、いかにも古代史マニアという風情の、
お一人でいらしてる年配の男性が多かったようです。
平日の昼間でしたしね。
さて、特別展に来ていた、天人文甎。
なんてほのほのと、柔らかく優しいのでしょう。
ふうわりと天から降り立った天人の、眉のあたりに漂うほっと眠たい様な安堵感まで、
天衣を翻す風とともに伝わってきます。
少女の、抱きしめればほろほろと崩れてしまいそうな、
あやうい体の温かささえ、たぷっとした衣越しに感じられます。
どれほど私はこの甎が好きか。
この、焼き物に閉じ込められた天の人のかそけき命が好きか。
たったひとりになってしまっても、誰かに、何かに、永遠に供奉する姿・・・。
春にサントリー美術館で鳳凰文甎を見ていますから、
久しぶりに満足しました。
ふたつが同時に並んでいるのを見たのは、もしかしたら、
平成8年4月の群馬県立歴史博物館「謎の大寺・飛鳥川原寺 白鳳の仏」
が、最初で最後かもしれません。
ともに岡寺で発掘されながら、今は所蔵を異にするためなかなか並んで見ることはできない様ですが、
約40センチ四方のこの甎仏で荘厳されていた床かあるいは須弥壇の腰などを、
遥かに想像するのは楽しいことです。
それから、古宮遺跡出土金銅四環壺。
古宮(ふるみや)遺跡は雷丘の反対側、飛鳥川の西岸にある遺跡だそうですが、
そこから明治時代、田仕事の最中に掘り出されて宮内庁お買い上げとなった、
最大直径40センチを越える堂々とした金銅の壺です。
見たときは、さすが宮内庁、と舌を巻きました。
もちろん、お買い上げだから素晴らしいという意味ではさらさらなく、
やはり、良いものを買っていくのだなあとしみじみ思ったわけです。
張りのある豊かな丸みはぽんぽんと跳ねそうなほどで、
写真ではなく是非実物で確認してほしい逸品です。
更に、肉眼ではほとんど錆で見えなくて残念ですが、
ところどころ垣間見える線刻の素晴らしさときたら、
全体が判明したらどれほどかと。
置かれているだけで、空気が清浄になるかと思うほどの、
香気漂うものでした。
胴部分に大きく大小対の鳳凰が2組あしらわれているそうで、
壁にその一部の線画が提示されていたのですが、これまた不親切で、
壺のどの面、どの部分にそれがあるのか、わからない。
周囲をくまなく眺めつくしてきましたが、とうとう、鳳凰の一部も見つけられず終いでした。
実は、そばにいた警備員のおじさまに聞いてみたら、
ニコニコと「ここらへんにあるって聞いてるよ」と指し示して教えて下さったのですが、
それは、壺の展示からいくと、真裏で・・・ほんとかなと思いつつも特にじっくり見てみましたが、
裏なので逆光になり、全然見えませんでした。
そして、法隆寺献納宝物から、
台座背面に「山田殿像」の銘のある144号、阿弥陀如来および両脇侍像と、
台座の蓮弁に檜隈寺の軒丸瓦と同様の火炎紋のある149号、如来立像。
東博法隆寺宝物館でいつでも会える2組ですが、この記述を見れば、
今、飛鳥の地で見える(まみえる)意味の重さが、心に迫ってきます。
「約930年ぶりの里帰り」
法隆寺献納宝物は明治11年(1878)、法隆寺から皇室に献納されたものが母体です。
そして法隆寺には、承暦2年(1078)、橘寺から49体の金銅仏が移入されています。、
つまり、現在の献納宝物の中には、930年ほど前に橘寺から移入されたものが含まれている可能性があるわけで、
今回選ばれた144号と149号は、言うまでもなくその可能性の高い2組です。
なので解説文の全文は、
「今回の資料が橘寺由来のものであれば、承暦二年以来、約930年ぶりの里帰りとなる」
です。
それでもやはり、見慣れたはずの2組の像に、
ひさしぶりの飛鳥は、どうですか?変わってしまったでしょう、
それとも、東京よりは、往時の面影が残っていますか?
など、人に聞かれでもしたら気が触れたと思われかねない会話を、
頭の中でずっとし続けていました。
展示は他にも、高松塚古墳、キトラ古墳、石舞台古墳、牽牛子塚古墳、他各遺跡出土品など、
古代史好きにはたまらないものです。
会期中無休ですが、石神遺跡出土具注歴木簡と飛鳥池工房遺跡出土「天皇」木簡のみ、
11/3(水)~13(日)の展示で、その他の期間はレプリカですのでご注意下さい。
飛鳥資料館、かめ石レプリカ越しに。

今回特別展、入り口の看板。

なおなお、常設展示に予想外のものがあって嬉しかったりしたので、
飛鳥での半日とともに、後日また書きたいと思っています。
円空こころを刻む [美術館・博物館]
埼玉県立歴史と民俗の博物館
「円空こころを刻む-埼玉の諸像を中心に」展
会期:2011.10.8(土)~11.27(日)
訪ねた日:2011.10.14
書いた日:2011.10.14
「円空こころを刻む-埼玉の諸像を中心に」展
会期:2011.10.8(土)~11.27(日)
訪ねた日:2011.10.14
書いた日:2011.10.14
なんとなく無性に博物館へ行きたくなり、
都内まで出るのは無理なので地元の博物館へ行ってきました。
円空仏展をやっていました。


あとで調べたらぴったり1年前に「埼玉の古代寺院」展に行っていたので、
この季節、何か呼ばれるものがあったのかもしれません。
さて、円空仏。
かつては、ザクザクとナタを入れただけの「荒い」作品、
発願12万体の完成のためにはいた仕方ない「雑な」完成、
そういう印象をもっていました。
その荒削りさが素朴で、原木の味わいを残して良いのだろうと。
なのに今日見に行くと、大小あわせて170体ほどのそのどの像も、
みなとても手が込んでいるように見えました。
いえ、もちろん、天平仏の様な、
近代的な美意識をも満足させ得るものとは違います。
木の中の仏をどうえぐり出すかと考えに考え抜いて、やがて違うことなくノミを入れた、
その作業が見せる不思議な手の込み様を感じたのです。
まさに「こころを刻む」ものでした。
かつて、稚拙な顔の彫り、均衡や安定感を無視した体躯、
ささくれた様なノミあと。
それが親しみやすくて人気なのだろうと・・・
どうして私は、ずっとそう思っていたのでしょうか。
軽やかに刻まれた顔の線はそれだけで神がかり、
流れる様な縦の線、それを力強く支える横の線で明快に構成された体は、
そのままなにものかの魂を内包しているとしか見えませんでした。
そしてなんと艶やかなノミの跡!
あまりに印象が違うので、ここ埼玉に残る円空仏は特殊な時期のものなのかと、
ふと疑って帰宅してから調べてみましたが、
少なくとも2006年東博の「仏像 一木にこめられた祈り」で見たものと、
同じ作品が幾点もありました。
すると、私自身が変化したということでしょうか。
少しずつ、ちゃんと生きてきた証左であればいいと思いました。
現在に残る円空仏といえば、岐阜や愛知が有名だそうですね。
埼玉は実はその2県についで、数多く所在が確認されている県なのだそうです。
でもそのほとんどが、在所の小さなお寺やお堂、そして個人蔵。
お家の仏壇の横に大事に置かれていたりするそうで、
もちろん常時は非公開です。
それが、このたび埼玉県立歴史と民俗の博物館(旧埼玉県立博物館)の、
開館40周年を迎える節目として、県内諸所の協力で集められたそうです。
もちろん他県から出陳のものも多くありました。
展示は背面の見えるものもあり、板目や原木そのままの背がわかるなど、
170点という数とともに、大変おもしろいものとなっています。
私が気になったのは、
頭上面がどう数えても12ある「十一面観音菩薩坐像」と、
かつて子供の遊び道具だったため表面が摩滅してしまったという観音菩薩立像と菩薩形立像。
前者はお面の数の不思議とともに、お顔がとても可愛らしいのです。
後者はそのいわれの面白さと、それが高さ1メートル前後ある大きなもので、
これを子供たちがどう遊んでいたのか、非常に気になったのでした。
それからカラスのクチバシの様な三角形の顔面が印象的な各種神像。
名前は護法神像、稲荷神立像、秋葉大権現、迦楼羅神立像など異なっていましたが、
なんとなく同じ雰囲気を感じます。
禍々しいもの、禍々しいものへの畏怖、そして禍々しいものの調伏、
三者をひとつの身で表現したような雰囲気でした。
なお、1632年美濃国に生まれ、1695年に亡くなったといわれている円空が、
生涯のいつの時期に埼玉に来てこれらの作品を遺していったのか、
紀念銘入りの作品も、資料も伝聞も残らないためほぼわからないと言って良いそうです。
ただ、県東部、日光街道近辺に多く確認されていることから、
日光での活動との関わりが考えられているのだそうです。
空海と密教美術展 [美術館・博物館]
東京国立博物館
「空海と密教美術」展
会期:2011.7.20(水)~9.25(日)
訪ねた日:2011.9.9
書いた日:2011.9.10
「空海と密教美術」展
会期:2011.7.20(水)~9.25(日)
訪ねた日:2011.9.9
書いた日:2011.9.10
夏休みの間は動けなかったので、会期終了も近くなった昨日、
やっと訪ねてきました。
あまり前もって情報を得てはいなかったのですが、
東寺の立体曼荼羅が再現されるのと、
兜跋毘沙門天がやはり凄いというのを聞いて、
期待半分、不安半分で足を踏み入れました。
金曜日の10時すぎに到着すると、並ばずに入館はできましたが、
中が混雑していてまず第二会場へと誘導されました。
しかし、入り口の階段を上がってすぐ右手に垣間見えたのは、
彼の帝釈天の涼しげなお顔!
引き寄せられる様にその部屋に入るのに何の躊躇がいりましょうか。
落ち着いて確認するとそこは最後の部屋だったので、
見事に逆走したわけですが・・・会場の方、すみません。
でも、お陰でまだそんなに混雑しないうちに、
東寺(教王護国寺)講堂の立体曼荼羅を堪能できました。
最近の東博の展示の例にもれず、
緩やかに傾斜するスロープを利用して、
部屋に入った者はまず遠目に全体像を把握、
その後スロープを降りきって、各像を間近で拝観できる、
という会場構成になっています。
来ていたのは、
手前中央に、降三世明王立像 と 金剛法菩薩坐像、
その奥に、大威徳明王騎牛像 と 金剛業菩薩坐像、
手前左右に、増長天立像 と 持国天立像、
奥の左右に、帝釈天騎象像 と 梵天坐像。
計8体です。
もちろんすべて承和6年(839)作、国宝指定。
(講堂の21体の中には江戸時代の新補像もあります)
東寺講堂では、狭い堂内に21体もの像がひしめき、
初めて足を踏み入れた時の異様に濃密な空間への怖れを伴った驚愕が、
その後何度訪ねても変わらず続いたものです。
さすがに、東博では、照度を落とし雰囲気のある演出を手がけているとはいえ、
1体1体を充分に離して展示し、また、近年非常に進歩したと思える照明効果も相俟って、
あのおどろおどろした「何かがある」としか表現のできない空間は、
微塵も感じることは出来ませんでした。
けれど、その分、像そのものの素晴らしさはとても良く伝わってきます。
降三世明王、背後にまわると、輪形の光背からちょうど後頭部の御顔が覗いていて、
まるで梟首の様で凄まじかったです。
持国天、解説板に、最も怖い形相の四天王像、というような記述がありましたが、
像の前を通ると、舌なめずりするその舌がぬらりと光るかの様な口の表現など、
思わずぎょっとして声を上げそうになります。
「最も怖い形相」の評に違わぬ素晴らしさでした。
増長天、非常に優雅に身を揺らして首を左にまわす姿は品の良い威厳に満ち、
動きそのものから得難い徳の高さ感じました。
そして帝釈天。
良いお顔です。
他の像に比べると、粘りつく様な濃い「気」とでもいうものを感じなくて、
その分、すっと心に近づきやすいと思うのですが、もしかしたら、
「頭部がすべて後補のもの」のためなのでしょうか(『もっと知りたい東寺の仏たち』東京美術)。
それにしても、良いお顔です。
生きていくことに手を煩わされずにすむ貴人というのは、
このようなお顔をしているのではないか・・・と思わせられます。
いくら見ていても飽きませんでした。
この帝釈天、乗っている象の脚の表現が面白いです。
そもそもが短脚なところに、皮がたるみにたるんで地面につきそうです。
瀟洒な帝釈天が乗るにしては、土臭い。
また、足元でいえば、降三世明王の踏みつける二人、
ヒンドゥー教の最高神の一人シヴァ神とその妃ウマだそうですが、
自分を夫もろとも容赦なく踏みつける降三世明王の右足に、
ウマの左手がとてもとても優しく触れているのが妙に印象的。
何か意味があるのでしょうか。
さて、一室の感想だけで長くなってしまいました。
次は、今回のもうひとつの目的、兜跋毘沙門天立像。
いつの年の秋でしたか、何心なく立ち寄った東寺で出会ったこの像。
その緊密な表現に一目で心を奪われました。
何ですかこの、光さえ閉じ込めて放さないというブラックホールの様な、
形ある物も形無き思いも総てをぎゅっと凝縮して固めたかに見える密度感は。
元は羅城門に置かれて外敵退散を求められていたという伝があるそうですが、
寄せ来る総ての厄災を、身一つに受け入れ閉じ込め続けた果ての姿なのでしょうか。
その、最初の邂逅は、表現上「カビが生えた様な」と書くと一番よく伝わる、
古めかしく雑多な展示室の一室に無造作に置かれていて、
案内の小さな紙きれをよくよく見たら国宝指定だったのでびっくりした、という思い出深いものでした。
今回は程よい演出と照明で、暗い室内に鮮やかに浮かび上がったお姿との再会です。
凄いです。
いっそ凄絶と表現したくなる密度の濃さです。
特徴的と言われる西域式の武装束、金鎖の編みこみや蝦の様な手甲の表現は、
緊密すぎてもう、毘沙門天の身と一体になり、決して着脱できないに違いありません。
さながら蛇の鱗を持つように。
長いその甲冑の下には、どうしたことか、
今の世なら「少女趣味」と評されるに違いない甘やかな裳すそが、
これでもかと言わんばかりにふりふりひらひらと覗いています。
お顔はというと、ひん剥いたギョロ目の視点はあわず、
上歯をむき出した口元は中途半端に小さく、怒っているよりは当惑した体。
鼻上の大きなしわだけがよく目立つという、
異形じみたあまり好まれるものではないかもしれません。
だけどというより、だからと言ったほうがいいのでしょうか。
胸元高くにくびれた腰から、大きな下半身がゆっくりくねる立ち姿には、
人たる身には決して手の届かない異次元感が漂って魅惑的なのです。
さてこの「空海と密教美術」展ですが、
ひと通りまわって気づいたのはほとんどが国宝か重文。
仏像だけでも、仁和寺の阿弥陀如来および両脇侍像、
醍醐寺の薬師如来および両脇侍像など、とても都内で拝観できるとは思えない像が並び、
風信帖はじめ現存する空海直筆の書5件が出るなど、
とても書ききれないので、感想はたった二点だけでお終いにしますが、
見応えという意味ではこれ以上ない極上の展覧会です。
昨今はHPのみならず公式ツイッターも配信されているのを会場で知り、
帰宅後フォローを入れてみると、
「「空海と密教美術」展、ポスターには国宝・重要文化財98.9%となっていますが、
展示替えにより現在は100%となっています。貴重な密教美術の数々をぜひご覧ください」
(9/4)
というツイートを見つけました。
凄いことです!
展示替えはこの後も行われるのでずっとこうではないかもしれませんが、
とにかく凄すぎます。
終了まであまり時間はありませんが、とてもおすすめの展覧会です。
最後に追伸的に・・・。
夏前に入り口の門入ってすぐの露天に置かれていてびっくりした、
大震災の文化財レスキュー義援金募金箱、
今回は平成館の出口にひっそり置かれていました。

春からずっと、上京するときは地震の可能性を改めて頭に入れてでかけますが、
今回など、立体曼荼羅の最中にいるとき、もし今大地震がきたら・・・と考えると、
人命の何より最優先は当然でありながら、
それでもやはり、私ごときの命ひとつと、
ここに並ぶ像とで、どちらが優先されるべきなのか、
考えてしまいました。
どのみちあと50年もつかどうかのどこにでもある命と、
1000年を越えて守り伝えられてきた唯一の物と。
永遠の課題です。
鳳凰と獅子 [美術館・博物館]
サントリー美術館
「不滅のシンボル 鳳凰と獅子」
会期:2011.6.8(水)~7.24(日)
訪ねた日:2011.6.15
書いた日:2011.7.4
「不滅のシンボル 鳳凰と獅子」
会期:2011.6.8(水)~7.24(日)
訪ねた日:2011.6.15
書いた日:2011.7.4
開館50周年記念「美を結ぶ。美をひらく。」 の2つめの展覧会です。
鳳凰と獅子、どちらも富、力を含めた高貴の瑞祥として、
古代から日本人の生活に取り込まれてきた、いわば見慣れた意匠。
どんな展示になるのか見当もつかず、さして惹かれもしませんでしたが、
鳳凰文磚(セン)が出ると知って、飛んで行ってきました。
会場入り口すぐに展示されていた鳳凰文磚。
やはりこれは、抜きん出た魅力があります。
約40センチ四方で厚みが8センチ、
どっしりと存在感のある磚は、一般に「タイル」と解説される印象より、
よほど大きくて重厚です。
薄い浮き彫りで刻まれた一羽の鳳凰は向かって右を向き、
優しい弧を描いて上方に開いた両の羽根は可愛らしく、
その羽根と円を作る様に跳ね上げた丸い尾羽根とで、
微笑をたたえた雄大で完全な世界を作っている様に感じるのです。
それなのに、これは、一つの美術品、または一個の信仰の対象として作られたものではなく。
現在南法華時所蔵だそうですが、もとは岡寺での発掘品。
対の様に存在する優美な天人文磚とともに、仏院の床か、むしろ須弥壇の腰などに、
「タイル」として装飾されてずらずらと並んでいたはずです。
壊れ残ったたった一枚がこんなに完全なのに、更にそれらが集合して構成された空間とは、
どんな間だったのでしょうか。
さて、目的のものを見た後は展示品をざっと・・・と思ったら、
予想外に面白く、ひとつひとつ足を留めさせられるだけでなく、
全体の構成がとても魅力的でした。
まずおおざっぱに、鳳凰も獅子も、
古代は神性の中に愛らしくも見える親しみやすさが含まれ、
時代が下るにつれて研ぎ澄まされた造形美に神々しさをまとっていくものの、
江戸半ばをすぎると急激に下卑たものになる、と。
ものすごく直感的な個人の感想です、嘲笑覚悟です。
もともと想像の鳥鳳凰はともかくとして、伝聞で憧れた獅子のほう、
実物を見ていないが故に神聖化が可能だったものが、
西洋から写実的なライオン図がもたらされたことで、
人間の支配下におこうとして下卑てしまった・・・というようなことを、ふと、
第11章、蘭学興隆から幕末へ、の一連の獅子図を見て思いました。
写実の図を見て描いたと思われるそれらは、
我々の目から見れば実物にはほど遠いにも関わらず、一様に神性を捨て、
獣性とでもいえる、生臭いものをまとっています。
それが明治に入り、上野動物園に実物のライオンが来くる頃からは、
竹内栖鳳の大獅子図の様に、写実的でかつ品格溢れるものとなっていくのが、
また面白いと思いました。
竹内栖鳳、大好きな画家さんです。
この大獅子図は、絹本着色の日本画ですが、
優雅に身を横たえて遠方を望むライオンを、
等身大かそれ以上の大きさでとても写実的に描いたもの。
近づけば剥いた牙がこちらを威嚇しそうで、
触れば少し硬めの毛がふさふさと波打ちそう。
毛の下で脈打つ鼓動とそれにつれて鳴動する筋肉の動きも感じとれる、
そんなおそろしく繊細で写実的な描写であるのに、
何故か口もとにだけ、刷いた様な墨線が施されています。
なくてもいいどころか、これがなければ完璧な写実なのに?と、
前から思っているのですが、なんだかまるで、
本物の獅子を、この墨線で、画として封じ込めている、
そのための護符の様にも思えてきます。
あと書いておきたいのは、伊藤若冲。
この人は本当に、おかしいです。
狂っているとしか思えません、画に。
三の丸尚蔵館所蔵の「旭日鳳凰図」、
その羽のどの一枚のどの先を見ても行き届いた描き込み様で、
前も書いたことがあるのですが、一人の人間が、画に、
これほどの総てを込められることが、あるのだろうかと、
凡人は立ちすくむしかなくなります。
そして全体を見たときの、胸をわしづかみにされる狂騒感。
もう一枚、屏風ですが「樹花鳥獣図屏風」。
桝目描、というそうですが、一見モザイク作りの様に、
画全体に方眼をひき、そのひとつひとつを塗りこめていく手法の作品。
白い目地まであって、まさに、昔の風呂場のタイル模様の様に見えるのですが、
総て手描き。
動物尽くし、鳥尽くしといった構図の全体を見れば、
こっくりと一種の温かいふくらみを感じます。
けれど、この気の遠くなる手法!
こんな描き方をする必要が、どこにあったのでしょうか。
そして、見ていると大変近代的に見えてきて、
江戸時代の日本で、ちゃんと受け入れられたのか、
そんなことまで疑問に思えてきます。
書けたのは好みの一部だけですが、
時代・場合を網羅して、鳳凰と獅子が日本人の生活に、
心に、どんな形で住み続けてきたか、一覧できる展示となっています。
期間入れ替えがあるので、後半、また訪ねてみたいと思いました。







